電話に関する記念日から、改めて電話の意義を考る
更新日:2023.03.30スタッフブログ日本の電話事業には、創業以来、100年を超える長い歴史があります。明治時代から数多くの節目を経験しており、その日付にちなんだ記念日もいろいろと制定されています。今回は電話に関わる代表的な記念日をいくつかご紹介しますので、電話の歴史や意義を考える際の参考としてお役立てください。
目次
電信電話記念日
日を追うごとに秋が深まる10月の後半。10月23日は電信電話記念日です
10月23日が選ばれた理由
電信電話記念日は、いまから約70年前の1950年に制定されました。人間でいえば、還暦を10年ほど過ぎたことになります。最近になって決められたわけではなく、歴史ある記念日のひとつといって差し支えないでしょう。
この日が選ばれた理由は、新暦の1869年10月23日(旧暦の9月19日)に東京・横浜間で電信線の架設工事が始まったことに由来します。戊辰戦争の最後の戦闘となる箱館戦争から数カ月後には、電信線を使った通信網の構築が始まったのです。
1870年に電報、1871年に郵便、1872年に鉄道、1878年に電気、1887年に水道の各インフラ事業が開始され、1890年には東京・横浜間で電話サービスが幕を開けました。電信線による通信網は次第に全国へと範囲を広げ、電話の利用者も増えていきます。
1950年に記念日が制定された背景
電信線の架設工事着手から80年あまりが経過した後、1950年に記念日制定となった背景には戦後復興という目標がありました。
実際に記念日を制定した部署は、電気通信省です。これまで逓信省が通信や郵便を管轄していましたが、そのうち通信関連の事業を電気通信省が引き継ぎます。まだ都市部でも焼け野原が多く見られるなか、この部署は明治時代から整備されてきた通信網の復旧とともに、国民への電気通信サービスの普及を目指しました。
戦災のダメージが大きく残る時代に生まれた電信電話記念日は、戦後復興ならびに電話事業再建への意気込みを示していたのかもしれません。
電話(創業)の日
冬の気配が色濃くなる12月半ば、12月16日は電話(創業)の日です。
12月16日が選ばれた理由
この日が電話(創業)の日に選ばれたのは、1890年の同日に日本で初めて電話が開通したことに由来します。
当初、通話できたのは東京市内と横浜市内の間のみです。電話交換局は、現在の東京都大手町と横浜の日本大通り沿いに設置されました。最初の電話番号簿「電話加入者人名表(1890年10月9日発行)」によれば、加入数は東京155人・横浜42人にとどまります。
電話局には、男女の交換手が夜間専門も含め数名ずつ勤務していました。昔は発信者が通話先を伝えると、電話局で通信回線を接続する仕組みが採用されていました。接続作業は手動だったため交換手は欠かせない存在だったようです。実際のやり取りでは、発信者が通話先の番号を交換手に告げると回線がつながり、折り返し交換手から通話できる旨が知らされるといった具合でした。
電話口での呼びかけは、初期は「おいおい」が使われ、後に「もしもし」へ変わったとの逸話が残っています。
電話事業開始への道のり
電話事業が開始されるまでの道のりは、決して平坦ではありませんでした。明治政府は、通信環境の整備になかなか積極的な姿勢を示さなかったためです。
電話機が日本に伝わったのは、1877年11月。グラハム・ベルが特許を取得し、アメリカ開催の万国博覧会の出展品が世界に衝撃を与えた翌年です。アメリカから2台が送られ政府関係者を驚かせたといいますが、明治政府は電話事業の開始を急ぎませんでした。
そんな政府に電話通信の必要性を説いたのが、石井忠亮(ただあきら)です。政府高官としてヨーロッパや上海を視察した石井忠亮は、どれほど各国にて電話が普及しているか理解します。この人物が「世界に後れをとってはならない」と強く訴えたことで、電話事業は1890年12月16日に幕開けを迎えたのです。
公衆電話の日
残暑の厳しい日々が続く9月上旬、9月11日は公衆電話の日です。
9月11日が選ばれた理由
この日が公衆電話の日に選ばれたのは、1900年の同日に日本初の公衆電話が設置されたことに由来します。
設置場所は、東京の新橋駅と上野駅の2カ所です。駅構内に、硬貨を投入すると通話できる電話機が5台置かれました。翌月には、京橋に電話ボックスも登場します。当初は「自働電話」と呼ばれていましたが、自動的に電話がつながったわけではありません。この時期には、まだ交換手が手動で回線接続していました。
アメリカでは街頭電話に「オートマティックテレホン」と表示があり、それを直訳したのが自働電話と考えられています。日本の電話局で交換手の姿が見られなくなるのは、1926年以降のことです。電話回線の接続に自動交換方式が導入され、交換手の業務は徐々に機械化が進みます。この頃には、電話の呼び方も自働電話から公衆電話に変わっていきました。
設置当初の利用状況
設置当初の公衆電話(自働電話)は、使用時にまず交換手を呼び出します。通話先の番号を伝え、必要な料金を投入すると回線がつながりました。
利用料金は、5分あたり15銭。電話機には5銭用と10銭用の投入口があり、お金が落ちると前者は「チーン」、後者は「ボーン」と鳴る仕組みになっています。交換手は、その音を確認すると接続作業に移りました。
ただ手動のため、作業中にミスは生じたといわれています。交換手が間違えれば、利用者はお金を入れ直さなければいけません。そもそも庶民にとって料金設定は高額だったため、公衆電話の利用率は最初のうち伸び悩んだとの話です。その後、料金の値下げとともに利用者は増加していきます。
3分間電話の日
冬の寒さが身にしみる1月の末、1月30日は3分間電話の日です。
1月30日が選ばれた理由
この日が3分間電話の日になったのは、1970年の同日から公衆電話による市内通話が3分10円に決められたことに由来します。最初に東京の中心部で改定され、順次、全国各地に適用されました。
それまでは利用時間に関係なく1通話10円だったため、通話料金は値上がりしたといえます。設定変更の主な目的は、長電話の防止です。当時は最初に10円だけ払えば通話は制限されず、いつまでも公衆電話で話している方が多く見られました。そんな状況が見過ごされることはなく、やがて改善措置が求められ時間単位の料金設定が採用されます。
まだスマートフォンがない時代、外出先から連絡する場合に公衆電話は重宝しました。長電話は他の利用者の迷惑になるおそれがあり、料金の値上げはやむを得なかったのでしょう。
公衆電話の料金設定の変遷
公衆電話の料金設定は、15銭から始まり利用状況に応じて変化してきました。戦前には料金の値下げが幸いし、利用者に恵まれ設置台数を増やします。
全国に広まった公衆電話は、戦争により壊滅的ともいえるダメージを受けます。電話機自体が減少しただけでなく通話時に欠かせない硬貨も不足し、利用率は落ち込みました。そこで採用されたのが、50銭紙幣による支払いです。ただ硬貨と違い投入しても音が鳴らなかったため、無銭で利用するトラブルは避けられませんでした。
次に登場したのは、後払い方式の赤電話です。商店の店先に電話機を置いたところ、今度はかけ逃げが発生しました。
これらの事態をふまえて導入されたのが、先払い方式です。同じ赤電話ですが、電話がつながると硬貨が投入されるシステムに変わります。ただ1通話10円の設定であり、電話を切らなければ追加料金は請求されません。上述の通り長電話が問題視され、結果、時間ごとに料金計算される方法が考案されるのです。
現在の料金システムが生まれるまでの経緯を改めて見返すと、当時の電話事業関係者の苦労がしのばれます。
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